ギャビーさんはファッション雑誌JJの専属モデルをつとめています。
綺麗な顔立ちで、ハーフのようですね。
幼少の頃は海外で育ち、そこから日本に移住しますが、日本に来てからは色々な苦労があったみたいです。
どんな幼少期を過ごされたのでしょうか。
今回はハーフでJJ専属モデルのギャピーさんの本名やどんな人なのか、両親と生い立ちなどについて詳しくまとめていきます。
それでは早速見ていきましょう!
ギャビー(モデル)はどこのハーフで両親は?
ギャビーさんは父親が日本人で、母親がアメリカ人のハーフです。
ハーフらしい奇麗な顔立ちをしていらっしゃいますよね^^
ギャビーさんは4歳まではアメリカで育ちその後日本で暮らしています。
しかしながら、お母さんは日本の生活に馴染めず、アメリカにすぐに帰国し、しかもギャビーさんとは20歳になるまで会わない約束をしているそうです・・・
その後は度々お母さんが変わっているそうです。
お父さんはそれからは家には帰ってこなかったといいます。
ギャビーさんは家に帰っても夕飯はないし、1人で過ごし、お母さんも変わる幼少を過ごしました。
そんなギャビーさんの父親や母親について、情報をまとめていきます!
ギャビーの父親
ギャビーさんの父親は
- 九州出身
- アメリカ育ちの日本人
という事が分かっています。
ギャビーさんが5歳の頃に、新しい事業を行うため福岡県二日市に移住してきました。
仕事が忙しかったのか定かではありませんが、ほとんど家に帰ってこなかったので、ギャビーさんは貧しい生活を送っていました。
アメリカでは父の祖父母が事業で成功していたため、裕福だったのに、日本に来てからは貧乏で真逆な生活になったんですね。
そんな祖父母が年に1回日本に来てくれて助けてくれたそうです。
父親は破天荒な人のようで、「自分の人生を楽しむ人」とギャビーさんは話していました。
ギャビーの母親
ギャビーさんの母親はアメリカ人です。
日本に来てからは馴染めず、たった4ヶ月ですぐにギャビーさんを置いて帰国してしまいますので、ギャビーさんは母の顔をほとんど覚えていないそうです。
ギャビーさんが5歳になる頃のことなので、母との思い出も少なく、その後もお父さんが再婚して新しいお母さんができても、またすぐに離婚・・・
新しいお母さんとも短い期間しか過ごしていないようですね。
幼稚園の卒園式の時に来てくれたお母さんが、小学校の入学式では別のお母さんだったり、、、。
ギャビーさんは2人目のお母さんについては「いい人で慕っていた」と話しており、3人目のお母さんは「馴染めなかった」と話していました。
その後、実の母親であるアメリカ人のお母さんとは20歳を過ぎたある日、約束どおりギャビーさんのインスタにダイレクトメールが届いたそうです。
そして、ギャビーさんに子供の頃好きだったお菓子やぬいぐるみを沢山プレゼントされたという事ですので、お母さんはずっとギャビーさんの事を想っていたのでしょうね。
ギャビー(モデル)の本名や出身地などwikiプロフィール!
- 本名:ガブリエラ・フェイス・ジェイド(GABRIELLA-FAITH JADE)
- 生年月日:1996年10月20日
- 出身地:福岡県(生まれはアメリカ)
- 血液型:O型
- 身長:167cm
これまでの主な経歴は、
- 2014年:「BLENDA」専属モデル
- 2015年:ギャル雑誌「Happie nut」レギュラーモデル
- 2019年:JJ専属モデル
- 2023年:Netflixの恋愛リアリティシリーズ「オオカミちゃんには騙されない」に出演し、大きな話題に。
本名はガブリエラ・フェイス・ジェイド(GABRIELLA-FAITH JADE)といって、FAITHは信念を意味するセカンドネームだそうです。
ギャビーさんはアメリカ合衆国ニュージャージー州で生まれました。
2歳の時のギャビーさんのパスポート写真です↓↓
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かわいいですね!!
生まれのニュージャージー州はアメリカ合衆国東部にある州で、ハドソン川を境にしてニューヨーク州に接しています。
都市郊外部で、人口密度は国内1位、世帯収入は国内で2番目の富裕層が多い州ということで、ギャビーさんもアメリカでは裕福な生活を送っていました。
しかし、前述した通り日本に来てからは真逆となります。
生きていくのに自分でなんとかするしかないし、周りにも助けてもらいながら、ファッション誌に出会い、救われ、モデルになりたいと思います。
そんな複雑な家庭環境をのり超えて、強くなり、人気モデルに登り詰めるまでの強さをもったのですね。
ギャビー(モデル)の生い立ちと貧乏エピソードまとめ!
ギャビーさんの幼少期は、父親は家には帰ってこないし、アメリカ人の母親は帰国して離婚。
その後も新しい母親ができてはすぐ離婚という複雑な環境で育ちました。
しかし、この特殊な環境を決して悪いことだと本人は思っておらず、これも家族の形だと根が明るいのか前向きに捉えているギャビーさん。
アメリカ育ちで言語の壁があり、小学校時代はいじめにあったそうです。
当時はハーフが珍しかったことが原因みたいですね。
しかし、持ち前の強さでいじめなど気にしない性格の持ち主でした。
カバンに傷をつけられても気にしなかったそうで、心が強いですよね。
また、ファッション誌に興味を持ったのも日本語がわからないギャビーさんにとって大切な出会いとなり、小学校でモデルに憧れます。
小学校高学年になると母親がいなくなり、ぐれてしまい、中学では、髪を金髪に染めてしまいます。
新しい母親にはなじめず、中学時代は家にはほとんど帰らなくなりました。
そんなギャビーさん、1人で生きていくためにいつも必死だったようですね。
そんなギャビーさんの幼少期の仰天貧乏エピソードを紹介していきます。
ギャビー貧乏エピソード①食事面
- 「家の向かいにあったパン屋さんで毎朝、パンの耳を貰った。」
- 「校長先生が給食の残りをとっておいて、食べさせてくれた。」
- 「目の前のセブンイレブンは、おでんのお汁をタダでくれた。」
家に両親がいないので、1人で家で過ごし、夕飯が食べれないことがわかっていて、そんな幼いギャビーさんを周りの人たちが助けてくれたそうです。
そうやって助けてくれたのはギャビーさんが近所の人に溶け込む能力が高かったようで、自分でなんとかしないといけないと子供ながらに感じていたのでしょう。
ギャビー貧乏エピソード②生活用品
- 「お金がなくて、病院に行けないので、自分で固定して骨折を治した。」
- 「ニキビには歯磨き粉を塗って直した。」
- 「傷にはアロエを貼れば治ると思っていた。」
- 「小学校で使うクレパスなどの道具は、落とし物入れにあるものでやりくりしていた。」
このような知識はどこで身につけるのでしょうか。
アメリカ人の血が関係しているのでしょうか。
これも自分で何とかするしかないという思いから行動に現れたのでしょう。
ギャビー貧乏エピソード③家
「15歳の時に家が更地になっていた。」
ある日、泊まりに行っていた友達の家から帰ったら、家があった敷地に札が立っていて、思い出も何もかもなくなっていたそうです。
家を失うという人生で一番辛い経験をされたのではないでしょうか。
どうしていいかわからなくなりそうですが、すぐに上京を決意するのは彼女の心の強さを感じますね。
まとめ
ギャビーさんは日本とアメリカの両親を持つハーフでした。
4歳まではアメリカで育ち、その後、日本に移住。
アメリカ人の母親は日本に合わず、すぐに帰国し、ギャビーさんは悲しい経験をします。
しかし、そんな母とのわだかまりも20歳の時になくなりました。
父親は家に帰らず、1人で貧乏な幼少期を過ごすことに。
さらに、父親は自由な人で、再婚してはすぐに母親が変わるという複雑な環境でもありました。
それでも逆境を跳ねのけて、強く育ったギャビーさん。
現在はモデルという夢を叶え、さらに自身のこのような生い立ちの経験から新たな事にも挑戦しているギャビーさんを応援したいですね。
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